私の中では「好きを貫く」=「好きに付随するネガティブ要素に意識的である」、かな
この記事はすごく考えてしまった。確かに、私の中でも「好きを貫く」ことと「勤勉」という言葉があまり結びつかない。
Yahoo!辞書(大辞泉)によると、勤勉とは「仕事や勉強などに、一生懸命に励むこと。また、そのさま。」であるらしい。その意味であれば確かにいいのかもしれない。
ただ私の中では、勤勉にはもう少し限定的なイメージがあるんだよなあ。継続的であること、一般的に(世間的に)いいと思われていることをやること、あるいは普通の人なら嫌がったり根を上げたりすることをやること、等々。勤勉という言葉にはどこか、「模範的な」という影がつきまとっているような気がする。二宮金次郎的な。
自分、職種の選択についてはわりと成り行きだったんですが(というかその先のための準備で、とか思ってた)、やってみたらどんどん面白くなって、その先とかより今の仕事の方が楽しいんじゃないかというハマりっぷり。プログラムが動いたうれしさとか、地道に積み上げたデバッグが形になった時の爽快感とか、そういうのをまた味わいたくて次に進んでしまう。それがずっと続いていく。
あと、私は数年前から自覚的に、ある趣味に取り組み始めました(それまでもぼんやり好きではあったんですけど)。うち1〜2年くらいは時間をつくって毎日のように録音し続けていました。今は時間と環境の関係で少しペースが落ちてるんですけど、気持ち的にはいつでもあのペースに戻せるようなコンディションです。
もし仮に、この仕事とか趣味に対して「勤勉だね」と言われたとしたら戸惑うだろうなあ。「いや全然…どっちかといったら断然怠け者ですが…」って答えるしかない。手探りでやっていたら面白くなってしまって、気づいたらどんどん続いてしまっていたというだけなんです。
どっちも「俺はこうなる!」って決めてから入ったわけでなく、成り行きの中で見つけたものではありますが、自分の中ではどっちも「好きを貫く」の中に入っていると思ってます。単純に楽しいから続けてしまう、という部分で。
で、それぞれをやってる中でよく思うのが、「どうせ毎日しちゃうんだから、できるだけイヤなことは省いたり、次にやる時に改善してたりしたいよね」っていうことです。
録音の手順を決めて手際よくやろうとか。録音と編集で作業できる時間が違うから、その時間配分を考えておいたりとか。録音して思うようにいかないところはイヤだから、次はそこを重点的に直そうとか。
プログラムの方であれば、ストレスのないエディタの設定とか、定型作業をバッチにしとくとか。変更履歴を手動で管理するの絶対面倒だし、やっぱバージョン管理だよね、とか。
要するに、付随するイヤなことはできるだけ最小化して、好きなことの快感部分だけを純粋に味わいたいんです。それは私の中では「勤勉」というのからはほど遠く、「欲望に忠実」という表現の方がしっくりきます。
柿が大好きで、毎日せっせと皮をむいて食べている人に「勤勉だね」って言うかどうか、というのにイメージ近いかもしれない。そう言われた人は「いや、単に柿おいしいし、皮をむいた方が食べやすいでしょ」と答えるんじゃないでしょうか。多分。
好きなだけで続けるとはいえ、柿を毎日食べるには、意外と障害があるかもしれない。皮をむくのが面倒だとか、季節によっては高いとか、店によっては置いてないとか。行き当たりばったりではどこかで続かなくなってしまうんじゃないかと。
本当に好きで毎日どうしても食べたいのであれば、そこを乗り越えるためには工夫が必要だと思うんですよね(どんなに些細なことでも)。複数個ストックして管理するとか、コンスタントに取り扱ってる店を覚えておくとか。皮をむくときに、丸のままむいたり4つ割りにしてからむいたり、自分がやりやすい方法やコツなんかも覚えていくでしょう。勢い余っていい果物ナイフを買ってしまったりするかもしれない。道具がいいとルーチンワークが楽しくなっちゃう、なんてことありますよね。
私の中では、プログラムも趣味も、この柿の例とほとんど同じです。
ここまで考えてきてやっぱり、私の場合、「好きを貫く」と「イヤなことを認識する」が切り分けできないほどくっついているんだなあと自覚しました。どんなに楽しいことでも、付随するイヤなことは絶対ある。それを受け止めた上で、できるだけ軽減することで、好きなことをより楽しく続けていける。
あと、「好きなこと」「イヤなこと」が100%自分の主観であることも条件。世間的に美徳とされること or みんながイヤがること をやれる(私の中の「勤勉」のイメージ)とは全然違う。もちろん、その2つが合致する場合もあるし、その場合はお互いにとってものすごく幸せな出来事だと思います。
リンク先の、寝るのが好きで毎日寝ている、という例も私にとっては同じ理由で説明がつくかな。受動的に、なんとなくいいところだけ味わうというのは快楽としてまだ弱いんです。私にとっては。
好きなことを続けていると、イヤなことが見える段階まで到達します。でもその間に、その人は受動的だった頃以上の強い快楽があることを知ります。そこから先、イヤなことだけ除いて純化すれば、もうどうしようもない快楽に没頭できるわけで。その味を知ってしまうと、続けないわけにはいきません、よね。
快楽をひたすら求めてしまうという意味では、自堕落に近いんじゃないかと思ってます。勤勉なんて言葉、とんでもない。